日々の嬉しいこと探し

5歳2歳0歳の3姉妹子育て日記

母というしあわせな職業

試験が終わってから、毎日娘たちと遊びに繰り出しています。


普段幼稚園は行きも帰りもバス送迎なのですが、
みきぽよに、試験何日か前から、
「今日おかあさんに迎えにきてほしい♡」
とお願いされていて、


試験終わってからたくさん迎えにくるからね、ということを約束していました。


よって、先週は毎日お迎え。
からの、どこがしかに遊びに。


ついでに、旦那さんが来月試験なので、土日静かに勉強してもらうべく、休日も娘ふたり連れ出して一日中遊びに繰り出しています。


そんな中で最近、思ったことがあります。


将来に備えてなにか勉強したり、
今の時間を有効に使わないといけたいと思ったりとか、
やりたいことをやるのだとか、
なにがしかしていないと、
自分が無意味なものに思えてきたり、なにかに向かって全然すすめていない、と思うことがあります。


午前は、リアルにだらだらすることがあります。


めいぽよとのんびり戯れて遊んでみたり、
株にうつつを抜かすこともあったり、
出てきた花の芽を、じーーっと眺めることもある。


そんななかで、
なにか挑戦したことがうまく成果にあらわれなかったとして、
(たとえば、受けた試験におちたとか、なかなか結果に結びつかないとか、やりたいことを犠牲にしたかもしれないとか。)


あんなに割いた時間は!なんて思ったりもするのですが、


試験をうけなかったとして、
なにも挑戦しなかったとして、
私はきっと、変わらず平凡な生活に、よくて多少毛が生えたような、きっとそんな日々を送っていただろう。



先日のゴーシ先生のブログで、
40代で亡くなられたお父さまの話やゴーシ先生の生き方について触れたり、


みなさんが熊本の復旧のために行動していたり、


目指したいものや、家庭を含めた仕事などに精一杯たちむかう姿を見て、


私にも新たな感覚が芽生えました。



なにかするとかしないとか選択するとして、
たとえ自分が求めている結果でなかったとしても、


『選んだ私の行動は、誰かをしあわせにしただろうか?』


損得感情とか、失った(もしくは失うであろうもろもろ)ものに焦点を当てるのではなく、
誰かのしあわせに貢献できたのかどうなのか、
そんなのを軸に生きていけたら、素敵だと。



誰かが少しでもしあわせになったなら、私の使った時間は、十分に価値がある。



そういう視点で自分を見ると、
母親というものはつくづくしあわせな職業です。


私が幼稚園に迎えにいったただそれだけのことで、
娘がしあわせな顔をする。


帰りの車で身を乗り出して、あのねあのね、といつもより楽しそうに話してくれる。


玄関の階段を花たちで華やかにしてみたら、
出かけるたびに、娘がかわいいねぇ♡と喜んでくれる。


芽が出たら、娘も旦那さんも喜んでくれる。


どこかに連れていくだけで、やったぁ〜♡♡といってもらえる。


たかだか1000円のプリキュアのワンピを買っただけで、彼女のしあわせはうなぎのぼりだし、


腕の中に彼女をおいて絵本を読むだけで私は彼女をうとうととしあわせな夢の中にいざなうことができるし、


ハイハイのめいちゃんをおいかけたり、お馬さんごっこをするだけで、幸せの絶頂と言わんばかりの笑い声を引き出すことができる。


愛情を込めていつもよりちょっぴり豪華な料理をつくってみたら、旦那さんのテンションが少しだけ高い。



究極には、笑いかけるだけで、彼らを笑顔にすることができる。



私のごきげんがよければ、
彼らもさらにしあわせになるのだ。



なにはなくとも。



母であり妻という私が、平々凡々でも、たくさんのしあわせを紡ぐことができる。



それは、私にとって、私が存在していることに価値をもたらしてくれる非常にありがたい事柄だと、深々と思ったわけであります。




平々凡々であろうがなかろうが、

誰かのしあわせを願える。
誰かにしあわせを願ってもらえる。
誰かをしあわせにできる。
誰かから頼ってもらえる。
誰かと共にある。

なにかに挑戦したいと思える。
なにかに挑戦できる。

笑える。
笑ってもらえる。



なんとしあわせなことか。